第267回「爆発するほどのエネルギーではないですが…」
- shibata111
- 7月12日
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更新日:7月12日
こんにちは!柴田エイジングケア・美容クリニックの柴田です。今年は梅雨がビックリするくらい早く明けて、猛暑が来てしまいましたね。皆様はいかがお過ごしでしょうか。万博には行かれましたか? 私はと言えば…先月号でお話した麻酔のアレルギー検査で毎週のように京都の大学病院に通っており、腰痛もまだあって長くは立っていられないので、今話題沸騰の万博には行けていません。ただ最近は、現地に行かなくても皆がfacebookやYouTubeに情報をアップしてくれるので、それを見ていれば結構楽しめますよね。イタリア狂の同級生なんか何回もイタリア館に行ってその度に写真をアップしてくれるし、知り合いの美容師さんなんかもパビリオン内は元より花火や噴水の動画までアップしてくれるので、もう万博に行った気になってしまいます。YouTubeで黒柳徹子が万博に降臨した映像も流れていて、ウーマンズパビリオンの館内での体験まで見る事ができるし、お勧め海外パビリオン20選の動画なんかもあって、ヨーロッパやアジア各国のパビリオンの中やステージのショーなんかも見る事ができました。それらを見ていて思ったのは、前回の1970年の万博と比べるとテクノロジーの進歩が凄いという事。まぁ前回は55年前なので当たり前かもしれませんが、大抵のパビリオンで天井や壁に映る映像が素晴らしく、技術の進歩には感心してしまいます。しかし…前回の万博からもう55年も経ったというのがビックリです。(多分今どきの小中学生の社会の教科書には55年前の万博の写真などが掲載されているんでしょうね…すでに歴史の一部になってるのかも…。)時の経つのは本当に早いですねぇ。当時私は小学生で、今と違って元気いっぱいだったので、夏の暑い盛りでも何回も行きました。でもアメリカ館やソ連館は人気でいつも長蛇の列だったので、車椅子のおばあちゃんと行った時だけ並ばずに入れたけど、他は並ばなくていいウガンダ館やクウェート館などマイナーなパビリオンばかり見て回った記憶があります。

そもそも万博って何なの?って思ったので少し調べてみると、「万博の歴史と始まり…万博の歴史は1851年にロンドンで開催された『第1回万国博覧会』にさかのぼります。この博覧会は、産業革命を背景に世界各国が技術の発展を披露する場として開催され、大成功を収めました。以降、様々な国で万博が開催され、その時代ごとの技術や文化が披露される場となりました」との事。そして、日本が初めて出展したのは1867年の第2回パリ万博の時で、なんと江戸幕府と薩摩藩・佐賀藩が出展したんだそう…。この時のパリ万博はかのナポレオン三世が主催したそうで、世界中にフランスの威信を示す為に日出る国の日本にも出展の要請があったそうな。これこそ教科書に載っている歴史ですね。(因みに、長年続けていた鎖国政策を江戸幕府が解いて開国したのが1854年なので、そのわずか13年後に万博に出展している事になりますね。日本という国の変わり身の速さに驚くばかりです…(^_^)。それだけでも驚きですが、その翌年の1868年が明治維新なんで、文字通り激動の時期だった訳ですね。)江戸時代のお侍さんで、フランス語喋れる人っていたのかなぁ? コンパニオンを現地で雇ったのかな?? お侍さんが羽織袴姿で自ら案内役したとは思えないしなぁ…などなど。あの時代にどうやって万博に出展できたのか、今では想像もできませんね。

そんでもって江戸幕府はパリ万国で何を展示したのかと言うと、日本文化を象徴する芸術作品とか家具とか工芸品、当時の機械などを展示したそうなんですが、その中でも大好評だったのが浮世絵を中心とする日本の絵画文化だったようです。それからというもの、パリではジャポネーゼというキーワードで大日本ブームが沸き起こり、その中でも浮世絵は、当時芸術の中心地であったパリで大ムーブメントを巻き起こす事になります。この浮世絵ブームは後にモネやゴッホの絵画にも模写などが沢山登場しているので、その影響力や凄まじかったようです。当時の状況を考えれば日本なんて誰も行った事がないような国ですし、文字通り極東の辺境地としか思われていなかったところが、なんとサムライという騎士が政治を司っているだけでなく、庶民の間で浮世絵や水墨画という芸術文化を嗜んでいる国があるんだ…という、彼らにとっては天変地異のような驚きだったんでしょうね。そう言えば、私の知り合いでヨーロッパに住んでいる友人がいるのですが、彼女曰くは「日本のアニメとか漫画って、フランスを中心に今じゃ大ブームだよ…もう彼らにしたら、庶民がこんな芸術性の高い文化を日常に取り入れているなんて、驚きでしかないようだね。でも、日本に帰ると相変わらずアニメとか漫画は一部のオタクのサブカルチャーって思われてるみたいだから、そのギャップに驚くのよ…。海外ではあんなに評価高いのに、日本に来ると、気持ち悪いオタクの隠れた趣味という程度に認識されているのが不思議よねぇ…」って言ってました。これって1867年のパリ万博の時からずっと続いていたのか…と思うと、なんだか不思議ですよね。

私は別にアートに造詣がある訳ではありませんが、ゴッホの絵画くらいは見た事があります。(本物じゃなくて写真だけど…(^_^;)。)まぁ、日本人で「ゴッホのひまわり」を知らない…というのは「郷ひろみ」を知らない人と同じくらい少ないのでは…と勝手に思っていますが。ネットで見るとゴッホって本当に浮世絵が大好きだったんだなと思う作品が結構あるんですね。でも、なんか外国人向けのお土産物屋さんに売ってそうな怪しげな日本のイメージなんですけど…(^_^;)。皆さんもネットで検索してみてください。面白いですよ。でもこれがパリ万博の残した影響なのか…。ゴッホついでと言ってはなんなんですが、山田五郎さんのYouTubeを見ていると、ゴッホは日本LOVEだったんだけど、行った事がある訳でもないし、かなり勝手な思い込みで日本を相当勘違いしていた節があるそうです。(山田五郎さんは、西洋美術のあれこれを分かりやすく解説してくれる大人気YouTuberです。)五郎さんの解説によると、当時のパリのアート界隈はとにかく新しい表現方法を求めていたらしい。当時は写真機が普及し始めた頃で、『そこにあるものを如何に写実的に描くか』という事は写真がやってくれる訳だから芸術家は写実的に絵画を描くだけでなく、写真で表現できないものを表現する必要がある…という時代の大転換期にあったみたいですね。

当時のヨーロッパの絵画を見ると、私なんかは「えぇッ? これ本当に絵なの? 写真じゃないの?」ってびっくりするくらい忠実に写実されていますよね。これは「遠近法」とか「陰影法」という写実技法が確立されていて、当時のヨーロッパの絵描きたるもの、そのような技法を使うのは当たり前だったそうな。ところが当時の日本ではそんな「遠近法」や「陰影法」なんか全く知らないし気にもしてない。今で言う漫画のような奥行きがなく平面的な画面に大胆な構図と色彩だけで作品を作っていたんだけど、それがパリの人達にしたら「おお!新しい! 遠近法や陰影法も使わず写実的でもない絵画がこんなに活き活きとしてるじゃないか! これこそが新しい芸術のスタイルだ! これからの芸術はテクニックに依存するんじゃなく、何を表現するかに注目すべきなんだ!」って事でブームになったらしいです。そんでもってゴッホは日本の浮世絵に陰影がないのは当時の日本人が陰影法を知らなかったなんて思わずに「日本は燦々と降り注ぐ太陽の光で溢れている国で、目に見えるものに影など入りこまないからだ!」と誤った情報を信じ込んだそうです。今ならネットにあふれる陰謀論とかそんなレベルなんでしょうけど、まぁ当時日本の事を知ってる人なんかそうそういないんだから、信じちゃうのは仕方ないですね。

そんでもって、浮世絵は版画で制作されていて、油絵のように一人の芸術家が魂を込めて一点一点書き上げるという訳ではなく、工房で印刷に近い形で作られていたので、今で言うところの工房内分業作業みたいな方法で制作されていたそうな。するとゴッホはそれも勘違いして、日本ではアーティスト達が一つ屋根の下で共同生活をしながら切磋琢磨するのが普通らしいと信じたようだ。(一旦信じたらどこまでも思い込みの激しいタイプって確かにいるよなぁ…。)そこで彼は、フランスのアルルという太陽が燦々と輝く南の都市に芸術家が共同生活をする為の家を借りて、パリに住んでいる知り合いの絵描きに「こっちにおいでよ…太陽の輝く明るい家に一緒に住んで絵を一緒に描こうじゃないか!」という手紙を送りまくったそうな。その際に来てくれた人達を迎える為に、各部屋へ一点ずつ「ひまわりの絵」を描いて準備したらしい。ゴッホの作品にひまわりが多いのはこうした理由だったんですね。ところが現実には、ゴッホが思い込みが激しくて面倒な性格であるという事は画家仲間の間では有名だったらしく、「え? ゴッホと共同生活?? いやいや、そりゃ無いね…」と、誰も来てくれない。ゴッホの唯一の理解者であった弟のテオが旅費も生活費も絵も買い上げると約束して、なんとかゴーギャンを説得して彼を送り込んだものの、案の定数ヶ月で共同生活は破綻。ゴーギャンはパリに帰る事になったんだけど、その時に起きたのが有名な「ゴッホの耳切り事件」だったみたい。まぁ…どんだけ面倒な性格してるのよ…ゴッホさん…。それに感情の起伏激しすぎだよ…ホント。でも、誰もいなくなった広い家で、耳を切った後もまた売れない絵を一人で描いていたという話を聞くと、なんだか胸が痛む寂しい話です。

ゴッホの話が随分長くなってしまいましたが、なぜ芸術に造詣もないのに長々とこんな話を書いたのかと言うと、前回の大阪万博の事を思い出していたからです。私は小学生だったので色々なパビリオンを見て回って楽しかったという思い出はあるんですが、一番心に残っているのは岡本太郎さんの「太陽の塔」なんです。「ゲージュツは爆発だ!」でおなじみの岡本太郎さんですが、当時の私にとって「太陽の塔」は「全く意味が分からないやたらとデカい物体」でしかなく、何なの? あれ? って思ってました。小学生と言えども、あんなにデカいもの作ったらお金もすごくかかるだろう…ってくらいは想像できたし、そんなにお金を使ってこんなものを作って何がしたいの?? という疑問で一杯でした。大人はみんな「素晴らしいゲージュツだ!」とか言ってたけど皆様は「あの化け物みたいな塔のどこがゲージュツなん?」って思いませんでした?

そして周りの大人たちに聞いても、どこが素晴らしいアートなのか、納得のいく説明をしてくれる人はいませんでした…。はたして、分かってる人が何人いたのやら。でも今年の大阪万博をきっかけにあの当時の記憶をたどりながら、なんで岡本太郎があの太陽の塔を制作したのか、という話をネットで調べてみると…当時の大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」だったそう。そして、岡本太郎さんに塔の制作依頼が来た時に、彼はなんとメイン会場の屋根を突き抜けるバカでかい塔を企画。そんなものを作れば屋根を壊さないといけないし、当時の万博委員会の人達は流石にそれはできないと反対。大体テーマが進歩と調和なのに、いきなり調和を乱すような企画だと猛反発だったらしい。しかし、彼は「調和とは人と人が真摯にぶつかり合う中で革新的なものが生まれて来ればそれが調和であって、仲間内のなぁなぁの中で最大公約数みたいな感じで決まるようなものの事ではない!」と彼らを一蹴すると、自らの調和に対する考えを貫いてあの塔を完成させたんだとか。さすが「ゲージュツは爆発だ!」って言うだけあるなぁ…(^_^)。ゴッホにしろ、岡本太郎にしろ、芸術家ってやっぱり普通の人じゃなかなかやっていけないのかもねぇ…と色々と思う事ひとしきり。

でも、「あっ! こうやって、常識を疑って物事を考えさせるきっかけやパワーを与えるって事が芸術の価値なのかも。今、実際に自分はこうやって普段だったら考えた事もない事を考えてるしなぁ」って思ったんです。なんかそうやって改めて「太陽の塔」の写真を見ると、「う…ん。確かにゲージュツは爆発だぁ!! 本当に爆発してるよ…ヤバいね、これ!」なんて思えてくるから不思議なもんです…(^_^)。
今年の万博も開催前から色々な批判を浴びて、税金の無駄遣いだとか散々叩かれてましたよね。開催してからも「完成してないブースがある」とか、「並ぶ時間の割にはつまらない」とか色々な批判が噴出するイベントみたいですが、「調和とは、人と人が真摯にぶつかり合う中で革新的なものが生まれて来ればそれが調和だ!」と信じて邁進する人達によって、支えられているのかもしれませんね。私も分野は違えど、いつも前に進むエネルギーだけは持ち続けなければならない!と、勇気をもらいました。この場を借りての予告ですが、恐らく数ヶ月以内にまたクリニックを移転しようと考えています。「自分が理想とするクリニック」を追い求める、というエネルギーがある限りは理想を求めていきたいと思っているんです。「爆発」するほどのエネルギーではないですが、少なくとも「邁進」するくらいのエネルギーは持ち続けたいですね。これからも変わらぬご支援を、よろしくお願い致します。

