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第228回「我が同胞の旅立ちにエール!」

こんにちは! 柴田エイジングケア・美容クリニックの柴田です。まだまだ寒い日が続きますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。3月と言えば卒業や転勤など、別れの季節ですね。私も先日悲しい別れを経験しました。整形外科時代に一番仲の良かった後輩Hちゃんが亡くなってしまったんです…。今回は私事ですがその思い出話と、悲しいながらも感動した事があったので、紹介させていただきたいと思います。少し長くなりますが、お付き合いください。


Hちゃんは大学の1年後輩で、整形外科の医局でも1年後輩でした。優しくて人が良く、また人懐っこくて可愛い感じだったので、親しい人は「H先生」ではなく、「Hちゃん」と呼んでいました。「〇〇やねん~」というようなおっとりした話し方が特徴的で、みんなよくHちゃんの話し方を真似したものです。話し方はだるい感じなんですが、仕事は真面目でしっかりした面もありました。Hちゃんとは30年前、大阪の病院の整形外科で一緒に働いていましたし、整形の専門分野の「手の外科班」でも一緒で、神経の研究や実験も一緒にしていたのでその後もずっと仲良くしていました。大阪の病院は院長が変人で酷い病院だったし、実験もすごく大変だったので、以前の通信でも書きましたが「同じ釜の飯を食った(理不尽な環境に励まし合って耐えた)仲間」って仲良くなるんですよね。それにHちゃんは誰にでも愛される性格だったしユーモアのセンスも抜群で、和食しか食べなかったけど美味しいものが好きで、なんか気が合いました。



当時の実験の環境は劣悪で、Hちゃんと私の1年上のN先生と私の3人は、当時手の外科班の長だった助教授が教授からいじめられていたので自分の大学では実験できず、助教授の友達がいた大阪の歯科大学に実験に行かされていました。当時の医局では上の先生の命令に逆らう事などできませんでしたから「ここに行って実験しろ!」と言われると、従う他なかったんですよね。自分の病院での仕事が終わってから歯科大へ行って朝方まで実験し、帰ってまた仕事をする毎日…。その上歯科大の教授選争いに巻き込まれて、私達が実験の方法などを教えて貰っていた教授候補の先生の対抗馬の先生達から散々嫌がらせをされて悲惨な目に遭っていたので、Hちゃんは私達3人の事を「悲しみの歯科大トリオ😢」と呼んで、「ふぇ~ん…」とよく嘆いていました。話は少し脱線しますが、大学の内部事情に興味を持たれる方も多いので、また少し暴露しますと…大学では学位を取るという名目で、実験をして論文を書いたりします。学位とは、医学部では「博士号」を意味しますが、世の中で医者の経歴や名刺を見ると「医学博士」って凄く多いと思いませんか? 私が子供の頃は、近所に賢い子供がいると周りの大人達は『末は博士か大臣か…』という褒め言葉をよく使っていましたが、私の周りは博士だらけ??です。一方で、大臣になった知り合いは一人もいないので、昔は博士と大臣は同じ位価値があったのが、近年博士は量産されて価値が下がったのでしょうか…。いや、医者の世界だけやたら「博士」が多いのでは…と思うのは私だけでしょうか? 普通は博士というのは大学院博士課程に4年間行って学位論文を書き、審査が通ると貰える称号です。しかし医者の場合は大学院に行かなくても研究を行って研究結果を論文にし、論文が認められると医学博士の称号を貰えて、そういう人の方が大学院に行く人より多いんです。でも大学院に行かずに働きながら実験するのって、臨床だけでも寝る暇がない位忙しいのにさらに睡眠時間を削らないといけないから本当に大変なので、そこまでして学位が欲しいと思う人は少ないと思うんですが、当時は大学院に行かない人もほぼ全員実験をさせられて学位を取る方向に進められました。当時は教授や上の先生の命令や勧めを断る=医局を辞めないといけないという事だったので、医局を辞める覚悟がなければそれは断れなかったんです。そして当時は学位を貰うと教授に数十万円の御礼を菓子折りに隠して渡さないといけない事になっていたので、教授は学位を出せば出すほど儲かった訳です。それが周りが博士だらけになった本当の理由じゃないかと思うんですよね。もちろん基礎研究が進めば遠い将来臨床に役立つ訳ですが、本来それは大学に残った人達がする仕事じゃないのかなと思うのは私だけではなかったと思います。ただ当時はそんな事を考える余裕もなく、そんな事口にはできない雰囲気でした…。実際には大変な思いをして何十万も払わないといけないので、「学位なんか要らんわ!」とぼやいている人も多かったんですが、当時の大学はそれに逆らえない仕組みになってたんですよね…。



そして歯医者さんの世界ではさらに桁が違う話になります。(まぁ昔の話なので時効でしょう…。今は流石に改善されていると思うので。)博士号を取るためには、通常は学位を取る本人が実験や研究をして論文を書きます。(当たり前の事ですよね??)ところが私達が実験に通っていた歯科大では、開業している歯医者さんで学位を取りたいという人が沢山いました。既に開業している訳なので、時間はないがお金はある…という人が多い訳ですね。そうなるとご想像の通り、何百万円かを払って大学の教室に残っている助手や講師の先生に自分が研究した事にして論文を書いて貰う…という事が結構あったんです。つまりお金で学位を買っていたという事ですね。しかしそうなると教室の先生は指導している歯医者さん達の論文を一人で書く事になり、時間には限りがあるのでそれほど多くの論文は書けません。ところが私達が実験に行くと、自分で論文を書きますから(…ってこれが本来の姿なんですが…)、私達を指導している先生は共同著者になって(実験を指導したという事で論文に名前を入れる事ができるので)一気に論文の数が増える訳です。教授選は論文数が選考の大きな基準になりますから、対抗馬の先生達にとってはライバルの先生の論文数が増えてしまうため、私達が邪魔な存在になります。…そういう訳で、ありとあらゆる手段で実験が進まないように足を引っ張られたり、嫌がらせをされたりしました。私は鉄のメンタルでしたが、ナイーブなHちゃんとN先生には相当なストレスだったようで、Hちゃんは「飲まなやってられっかい~!」が口癖でしたし、N先生は普段非常に温厚なのに当時は大学の宴会なんかで酔うと記憶をなくして暴れていたそうです。ストレスって怖いですねぇ…。まぁ昭和の時代なので、まさに『白い巨塔』のような世界が本当に繰り広げられていた訳です。



さらに私達は、学位を取った後もまた新しいテーマを与えられて、歯科大で実験をさせられていました。当時は一旦論文が書けると思われると次々と仕事が回って来たので「できたら損、目立ったら損」という言葉が流行った程です。そんな状況の中で「悲しみの歯科大トリオ」の指導医だった先生が教授選に負けてしまい、私達は歯科大出入り禁止になりました。(今考えれば私達が出入り禁止になるのは理不尽ですが、当時はそんな世界だったんですね。)しかしその時私達は「やったぁ!」とばかりに手を取り合って喜びました。戦争が終わり、シベリアの強制収容所から開放された思いです(指導医だった先生には申し訳ありませんが…)。その後は、ようやく実験から解放されてスキーや旅行に行ったり、宴会をした楽しい思い出があります。「悲しみの歯科大トリオ」から悲しみが消え、同じ釜の飯を食った戦友として普通の『仲良しトリオ』になった訳です。あの頃は本当に娑婆の空気を吸った感じで、幸せをかみしめていました…(^_^;)。そんな事からよけいHちゃんとは仲良くなったのかもしれません。



またHちゃんは割と早く結婚したんですが、奥さんは私やHちゃんが研修医だった頃の医局の秘書さんで、当時は「Kタン」と呼ばれていました。医局の秘書さんというのは大抵いいとこのお嬢さんで可愛い人が多かった(当時整形外科医はほとんど男だったので、可愛いお嬢さんを秘書に雇っていたらしい)んですが、Kタンは可愛い上にすごくいい人でした。当時の研修医と言えば「研修医に人権はない」と堂々と言われていた時代で、朝早くから馬車馬のように働いて、最初の食事が夜中の1時…という事もざらでした。医局の上の先生も忙しいのでお昼は秘書さんがお弁当を頼んでくれてたんですが、研修医が「僕も…」と頼もうとすると、可愛いけど意地悪な秘書Aさんに「研修医の先生のお弁当なんかありません!」と、プイっとそっぽを向かれたのを目撃した事があります。研修医には秘書も看護師(当時は看護婦ですが)も偉そうで、研修医と言えば奴隷のような時代でしたが、Kタンは研修医の私達にも優しくて、天使のような存在でした。HちゃんがそんなKタンに惹かれたのも当然のような気がします。Kタンはしばらくして医局秘書を辞め、実家のパン屋さんを手伝っていたようですが、Kタンが医局を辞めてからも、HちゃんはKタンを諦めきれずに追いかけて行ったと聞いています。Kタンの実家のパン屋さんは私も大阪で勤めている時に訪ねた事があるんですが、突然訪ねたにも拘らずKタンは「いやぁ先生~! よう来てくれはりました~!」と歓迎してくれた記憶があります。またHちゃんが結婚した後も、スキーに行った帰りなどに皆でHちゃんの自宅に急に立ち寄ったりしても、Kタンはとても愛想良くもてなしてくれました。Hちゃんは15年程前に開業したんですが、Kタンは邪魔くさがりのHちゃんが嫌がりそうな雑用は全て引き受けてサポートしていたらしく、本当にできた奥さんで、2人は24時間一緒にいてもとても仲良しのおしどり夫婦だったようです。



Hちゃんは私が紹介した「丸山」という和食屋さんを気に入っていて、職場が離れた後も時々飲みに行ったり、整形関係の事で何かあったら電話で話したりしていましたし(何もなくても「先生、元気~?」って電話しあう事もありましたが(^^)…)、私の母のお葬式にも来てくれました。お礼に母が気に入っていた梨園の梨を送ったら、美味しいもの好きのHちゃんはとても喜んでくれて「先生、また梨送って~」と人懐こく言っていたのを覚えています。


しかしHちゃんは8年ほど前にストレスでお酒が過ぎたのか肝臓が悪くなり、好きだったお酒をキッパリやめたというのを、6年ほど前に会った時聞きました。(この時の話はクリニック通信第151回に書いています。)しかし、重い病気だという事は一昨年Hちゃんの同期で私の卓球部の後輩でもあるT君に聞くまで知りませんでした。「なんで言うてくれへんかったん?!」と聞くと、Hちゃんは「そんなん暗なるやん~。Tも喋りやな~」と言っていましたが…。Hちゃんは控えめな性格だったので、必要な時以外病気の事を人に話す事はなかったようです。でもその時は治療して落ち着いているとの事で「また飯行こ~」って言ってたんですが…。Hちゃんは「丸山、ほんまに旨かったな~! また行きたいな~」といつも言っていましたが、守口にあった「丸山」はその後芦屋から豊中のロマンティック街道に移転して、その時はネットで検索しても出てこなかったので(誰か「丸山」のその後をご存じの方がおられたら教えてください!!)「またフグか鮨でも行こ~」と言っていました。しかし、ちょうど「来月フグ食べに行こ~」と言っていた時にコロナが流行り出して行けなくなり、そのままになってしまいました。(本当にコロナを恨みます…。)去年の夏に電話で話した時はわりと元気そうで、「コロナ落ち着いたらまた飯行こ~」と言っていたのでそんな急に悪くなるとは思っておらず、しばらくしたらまた会えると思ってたんですが…。



Hちゃんの訃報を知ったのは亡くなって1ヶ月以上経ってから、医局から訃報を同門会員に知らせるFAXが来た時でした。驚いて前述のT君に電話しましたが、彼も以前Hちゃんの主治医だったHR君も知らなかったとの事だったので、思い切ってKタンに電話してみました。電話口のKタンは「あ、先生~…」と涙声。話を聞くと、去年の秋頃からだんだんしんどくなってきて、最後は3週間程M病院に入院したけど、その時もHちゃんは「HRくらいには言うといた方がええかな~」と言いつつ誰にも連絡しなかったので、Kタンも本人の思うようにと思って誰にも連絡しなかったそうです。Hちゃんは自分がいなくなってもKタンが困らないように全て段取りし、最後Kタンに「結婚して良かったなぁ…」と言って安らかに旅立ったそうです…。Hちゃんは「葬式も戒名も要らん」と言っていたそうで、お葬式だけ親族でしたけどKタンはショックで何も手に付かず、連絡する気にもなれなかったとの事でした。でも1か月経って「医局には知らせといた方がいいかなぁ…」と思って連絡したそうです。Kタンは「1ヶ月経ってもまだ信じられなくて…。まだふっと帰って来そうな気もするし…」と終始涙声でした。「みんなどうやって乗り越えてはるんやろ…」「ずっと一緒にいるて思てたのに、これからの人生長いなぁ思て…」そう言って悲しむKタンに、かける言葉もすぐには見つかりませんでしたが、なんとかお悔みを伝え、私もショックでまだ信じられない事や、こんなんやったらもっと早く会ってたら良かった…と思う事などを話しました。その後Hちゃんが仲良しだった先生達に電話して、コロナが落ち着いたら「Hちゃんを偲ぶ会」をしようという話になったのでそれをKタンに伝え、「何か困った事あったら言ってね」と何度か電話やメールをしていると、Kタンから「メ-ルやお電話での会話には本当に支えていただいております。(主人も必ず一緒に参加していると思います。)心より感謝いたしております」というメールが来て、HちゃんはずっとKタンの心の中で生きているんだな~と思いました。



私事を長々と書いてしまいましたが、そんな訳で「悲しみの歯科大トリオ」から「仲良しトリオ」になったのもつかの間、トリオのメンバーの一人が永遠に消えてしまった事でぽっかり心に穴が空いてしまった感じです。この空虚間を埋めたくて誰かに話を聞いて貰いたく、一連の話を友人Mに話したところ、Mは「旦那が逝って肩の荷が下りたとか、せいせいしたって言う人も多い昨今、久しぶりにいい話聞いたわ…。旦那が先に死んでどんどん元気になりました…という未亡人の話は何度も聞いたけど『みんなどうやって乗り越えてはるんやろ…』とか『ずっと一緒にいるて思てたのに、これからの人生長いなぁ』なんてテレビドラマでしか聞けないセリフだと思ってたよ。僕の周りでは聞いた事ないなぁ…どっちかと言うと旦那が亡くなった事より自分のペットの子犬が死んだ事を嘆いて悲しみにくれる人の方が多いんじゃない?」と、やはり聞いてるポイントが違うと言うか『え?!感心するのはそこ?』という気がしたものの、言われてみればそうかもしれないなと思いました。私もアンチエイジング関連の論文で「男性の寿命が短くなる最大のリスク要因は、奥さんに先立たれて一人になる事です。一方で女性の場合は、配偶者が先立つ事の寿命への影響はほぼ見られない」と書いてあるのを見た事があります。まぁその論文では、女性は配偶者が先立つ事と寿命が短くなる事の因果関係は見られない…と書いてあるだけで、流石に『かえって長くなるんじゃない??』って示唆はしていませんでしたが…(^_^;)。皆さんはどう思われます?? Hちゃんは奥さんをしてそのような言葉を言わせるくらい、いい男だったという事ですよね…。うんうん! さすが、我がトリオのメンバーだっただけの事はあります…見直したよ、Hちゃん…(^_^)。



実はここ最近、Hちゃんを含めて3人もの整形の後輩が立て続けに亡くなったんです。Hちゃんより3学年と6学年下の後輩なので、本当に若くして亡くなった感があります。「医者の不養生」という諺は、患者には養生を勧める医者が自分自身の健康には注意していない様子を意味し、転じて理屈は分かっていながら自分では実行しない事の例えとして使われますが、医者という職業はやっぱりストレスも多く、調子が悪かったり何か病気の兆候があっても検査をする暇もなかったりして、分かってるけど実行しないんではなく、実行できない面もあるんですよね。私も勤務医時代は体調が悪い事が多くて「先生、調子いい時なんかあるんですか?」と言われていたくらいですから…。それでも昔は「しんどいのが当たり前」の時代だったので、無理して頑張ってしまうところがありました。でも近年はそういう時代ではなくなったので、やっぱり健康には気をつけて、元気で長生きしたいものです。人生で健康って、一番大切ですからね。今回Hちゃんの事で電話をした医者仲間にも、「先生、長生きしましょう」「検査はやっぱりしといた方がいいよ」とか言われました。Hちゃんがキッパリお酒をやめたのは「普通なかなかやめられへんけど、さすが医者やね」とMも感心していましたが、ちょっと遅かったのかもしれません。本当に残念です…。私も、Hちゃんの代わりにKタンを少しでも支えるために長く元気でいないといけないし、健康のためにはやはり普段の食事と運動が大事なので、最近はお昼は豆乳青汁に納豆と、ひじきか野菜の胡麻和えなどにし、酪酸菌ヨーグルトは毎日食べるようにしてお酒も減らし、一応筋トレにも励んでいます。なかなか筋肉がつかないのが悩みの種ではありますが…。そしてアンチエイジング医学をもっと研究して広め、一人でも多くの人の健康に役立つように頑張りたいと思います。今後とも宜しくお願い致します。



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