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第163回 (2016年10月) 「医局の春」



こんにちは。柴田美容皮膚科クリニックの柴田です。朝夕はかなり涼しくなりましたね。季節の変わり目ですので、皆様体調を崩さないよう気をつけてくださいね。秋と言えば梨の季節です。母が元気な頃にお気に入りの梨園から取り寄せてはお世話になった人に送りまくっていた梨は今も健在で、今は私がお世話になった方に送ったり、大学の卓球部に差し入れしたり、ちょうど梨が届いた日に来てくださった患者様におすそ分けしたりしています。先日も卓球部の後輩達からお礼のメールと、みんなで梨を分けて美味しそうに食べている写真が送られてきました。卓球部と言えば、去年3人の後輩が同時に大学の教授に就任した事はこの通信にも書いたと思いますが、今年もまた卓球部の後輩N君が教授に就任し、彼は卓球部の顧問も引き受けてくれる事になりました。うちの大学のクラブの顧問は教授から選出され、そのクラブ出身の人でない事も多いんですが、N君は現役時代は卓球もめちゃ強くて近畿大会で優勝した事もあり、卓球部男子の黄金時代を築いたメンバーの一人なので、クラブの運営にも人一倍身を入れてくれると思われ頼もしい限りです。



このように「人間性と実績の両方を兼ね備えた人」が医学部の教授になるというのは嬉しい限りです。あまり大きな声で言える事ではないんですが、昔は医学部の教授と言えばまさしく「白い巨塔」に出てくるような腹黒い野心家の人物がなる事が多く、大学の医局では真面目でいい人は日の目を見ない・・・と相場が決まっていました。しかし最近は、N君をはじめとしたまともな人も教授になるようになった気がします。その原因は医学部の教授の権限があまりにも大きく弊害があったため、教授の権限を減らす策が打たれたからのように思います。医者の世界っていうだけでも世間の常識から少し外れていると思うのですが、それが大学の医学部となればそのズレ方はもっと凄い・・・というのは皆様も想像がつくと思います。昭和の時代、当時の大学病院には若手医師が溢れ、医大教授とは「医局における絶対君主」であり、医師にとって垂涎のポストでした。と言うのも、当時の教授や大学医局は医師就職情報を一手に握っており、人気病院への就職には教授の推薦が不可欠であったからです。教授や医局に逆らえばマトモな病院に就職できないだけではなく、薄給を補う当直アルバイトの口すら見つけることが困難となり、たちどころに生活に困窮するという訳です。



(実は、大学病院の下っ端の勤務医は激務なのに基本給はめちゃ安かったんです。私が大学の研修医だった頃は、うちの大学の研修医の月給は11万円でした。それで週に2日は徹夜、他の日も医局で仮眠したりで平均睡眠時間は2-3時間、朝から走り回って最初の食事にありつけるのは夜中で日付が変わってからの事もしばしば。同期の研修医と恐る恐る時給を計算したら、なんと176円だった・・・。それでもうちの大学の給料はましな方で、私立の大学なんて月4万円というところもありました。(まぁ私学の医学部なんて寄付金や授業料が何百万で、親が金持ちでないと行けないので、研修医の間も養ってはもらえるんでしょうけど。)また、病院側としても優良医師を安定的に派遣してもらうには教授との円満な関係が不可欠で、「顧問料」「研究費」「協賛金」といった名目での水面下の’実弾’は半ば常識だったようです。友人に「国公立大学の医学部の教授って公務員でしょ。医者として普通の病院で働いたりアルバイトしたりした方が収入はいいはずなのに、なんでみんな教授になりたがるの? 文系で哲学科とかだったら他に職がなくて、教職が一番安定した収入が得られるので人気があるのは分かるけど・・・」と聞かれた事がありますが、人気の理由はやっぱり上記の病院からの実弾とか、製薬会社からの献金、さらには学位(博士号)を出した時の医局員からの御礼(当時は一人30万~50万円が相場で、教授によっては要求する素振りまであったとか・・・。今は流石にそのような露骨な事は無くなったと聞いていますが、これも教授によるようですね)などではないでしょうか。



まぁ、一言で言うと医学部教授とは「絶大な権限を持つ、甘い汁を吸えるポスト」だった訳です。だからこそ「白い巨塔」のような熾烈な権力争いが繰り広げられるのです。「白い巨塔」と言えば皆様、もうよくご存じですよね。浪速大学の野心に燃える天才外科医・財前五郎と、研究一筋の内科医・里見脩二の二人を通じて、患者の命を軽視して権力闘争に明け暮れる大学病院の実情、医局制度が抱えていた問題など、医学界に深く根付いた腐敗を追及した社会派小説の代表とも言える作品です。近年の医療事情を反映した2003年のドラマ版(財前役は唐沢寿明)は勿論、1966年の映画版(財前役は田宮二郎)あるいは1965年に刊行された小説版を読んだ大学病院の若手・中堅医師からは「なんだ、これってウチの病院そのまんまじゃん!」という声も多く聞かれていたようで、原作の発表から30年以上経っても変わらない一面があったようです。



そう言えばうちの大学でもありました、ありました。野心に燃えて教授を目指していたK先生。手術は下手で性格は悪く、教授になるための業績集めには恥も外聞もなく精を出す・・・。論文を横取りされた若手医局員は数知れず、出張病院(大学病院の医師が手術の手伝いなどでアルバイトに行く大学関連の病院)に行くと手術はせずに見ているだけなのに、手術記録には「スーパーバイザー(監督)」と記載させて症例数を稼ぐ(手術の症例数も教授選に関わるので)。医局内では一番嫌われていましたが、奥さんが名門の金持ちで政治力はあったようです。教授選というのは学内の教授達の投票で決まるので医局員の声などは反映されず、外面が良くて政治力のある人が教授選で勝つ事が多かったんですよね。それでもまともな教授も何人かはいて、「Kだけは教授にさせるな」という「反K派」の先生達もいました。私の父が手術をしてもらったH先生もその一人で、手術室で父の手術を見学させてもらった時に、術後の説明の後「ところで・・・K先生って手術下手やねんて?」と聞かれた事があります。K先生は股関節の手術の度に骨を割ってしまったり、太い血管を切ってしまったり大変な事が度々あったので、私が正直に「はい」と答えると、H先生は(情報得たり!)てな感じで嬉しそうだったのを覚えています。しかし結果的には「反K派」の運動が過ぎてK先生に同情票が集まってしまったそうで、K先生は教授に当選してしまい、同時に20人以上の医師が医局を離れて独立(開業)したんですねぇ。



そういう「白い巨塔」のような世界が変わり始めるきっかけは2004年4月。くしくもドラマ『白い巨塔』放送終了の翌月から、厚労省によって新研修医制度が導入されました。それまで伝統的に母校の附属病院に就職していた新人医師たちは、卒後2年間は特定の医局に属さず、希望の研修病院の試験を受けて通った病院で「外科2カ月→小児科2カ月→精神科1カ月・・・」といろんな科をローテートする事となったのです。これは1998年にK医大で研修医が過労死し、社会保険労務士であった父親が大学を提訴して大学側が敗訴した事件が背景にあったようです。その事件のデータを見ると当時の研修医の労働時間より私達の研修医時代の労働時間の方が長かったのですが・・・^^;。私もよく過労死しなかったなぁ・・・と研修医時代を思い出す度に思っていました。私が大学を卒業して医局に入ったのは1986年で、当時1学年上のK医大の研修医が過労死したという噂を聞いたんですが、その時はその事件は闇に葬り去られたのかもしれませんねぇ。2004年の新研修医制度の導入と同時に、封建的な大学病院を嫌って都会の大病院を目指す若者が増え、教授の権限は減って大学の医局も変わってきたようです。



そしてインターネット社会の到来も医局衰退の一因となったのは間違いないでしょう。昔から「医者は世間知らず」とよく言われますが、「世間知らず」だったからこそ、教授の一声で見知らぬ僻地に赴任していったのです。当時は駆け出しの医者と教授を頂点とする医局との間にはあまりにも情報格差がありました。「三六協定」も知らず、当直明けでもそのまま連続で勤務する「36時間連続勤務」を「医師ならば当然の義務」と思い込まされていました。かつての医大教授は、人事権のみならず医者の就職情報も一手に握っており、教授に逆らえば当直アルバイトひとつ見つけることも困難でしたが、ネットの発達した現在では、5分もあれば医師転職サイトを10件以上検索できます。教授に逆らっても、ネットで登録すれば数分後には携帯メールで日給5万以上のアルバイト情報が送信されるので、経済的に困窮する事はないようです。そもそも教授が僻地病院出向を命じても、それには法律的な義務は全くない事も、そういった労働相談に乗る弁護士もネットで簡単に検索できます。数少ない実働部隊でもある若手から中堅医師は、もはや従順な召使ではなくなってしまい、同時に教授も絶対君主ではなくなったという事です。



そう考えると権力者が自分の権力を維持する為に最も重要なのは「情報格差」を無くさない事なんだなって思います。北朝鮮のような独裁国家は一般庶民がインターネットにアクセスするなんてとんでもない事だし、GDPが日本を抜いて世界第二位の経済大国になった中国ですら、今だにインターネットによる情報アクセスは当局が厳しく規制しています。世界を見渡してもインターネットの普及により民主国家の生活や情報が拡散し、民主化運動が盛り上がって独裁者を追い出すという「アラブの春」が発生したのは記憶に新しいですね。情報が均等に行き渡り、誰でも情報にアクセスできるようになると、今まで情報を一手に握っていた権力者から一瞬にして権力を奪ってしまうのだという事を目の当たりにした感じです。(ただし「アラブの春」では独裁者の打倒までは成功しても、その後の民主的な平和国家の樹立には成功していないようですが・・・何事も壊すは易いが作るは難しいって事なんですね。) そういう訳で、昔のような野心家が教授になりたがる事がなくなり、真面目でまともな先生が教授になり易くなったんですね。その分教授という職は、昔のようにおいしいポストではなく大変なポストになったんでしょうけど、医局員である若手医師や患者さんにとっては昔よりはいい大学になっていくんじゃないでしょうか。私達が研修医だった頃は「研修医に人権はない」と堂々と言われていました。新研修医制度が導入されてから、研修医の人権が確保され、研修医達が研修先の病院を自由に選べるようになった分、大学病院で研修する医師が減って中堅の医師にしわ寄せが来たり、地方の大学や僻地の病院の医師数が減るなどいろいろ問題も起こってはいるようですが、昔の「白い巨塔」時代よりはましな状況になったんじゃないでしょうか。まだまだ改善すべき事は山積みで、そんな中で教授になるのは大変なんだろうとは思いますが、頑張って欲しいものです。



私はと言えば、医局を離脱する医師は「はぐれ者」と言われるような時代に医局を離れて美容という新しい分野で開業し、医局に残った医師達からは変わり者という目で見られていたでしょうし、経営や従業員問題など大変な事もいろいろありますが、やっぱり封建的な組織にいるよりは思い切って新しい事を始めて良かったと思っています。自分で責任さえ取れば、誰に強制されることもなく自分の思った事ができますから。そしてこの道に方向転換して良かったと思うのは、やっぱり患者様の笑顔を見た時。綺麗になると明るく朗らかになる方も多いので、そういう方たちの笑顔を見ると方向転換して良かったなぁと思います。先日もクリニックの近くで以前来られていた患者様に偶然出会って声をかけていただきました。「先生! お久しぶりです! 最近忙しくてなかなか行けないんですけど、クリニック通信はずっと読んでます! 面白いので楽しみにしてますので、お忙しいでしょうけど頑張ってくださいね! また行きますから!」そう言っていただくと、いろいろな問題の悩みも疲れも吹き飛んで、あぁやっぱりこの道に進んで良かった・・・と思いました。これからもますますいい治療を研究開発して、皆様の笑顔を見られるように頑張りますので、宜しくお願い致します!

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