第147回 (2015年6月) 「母の言葉」

  


こんにちは。柴田美容皮膚科クリニックの柴田です。新緑が綺麗で、風が心地よい季節になってきましたね。皆様はいかがお過ごしですか? 連休は楽しまれましたか? 私の連休はと言えば・・・最近はほとんど寄る事がなくなっていた実家の片付けでほぼ終わってしまいました。物が溢れていて片付けても片付けても終わらないので、時間ばかりが経過したように思います。やっぱり人が生きていると色々な事が長年積み重なって、他の人は不要に思うけど本人にとっては必要な物が大量にあるんですよね。ただ、それはその人が生きてきた証なのかもしれませんが・・・。私事で大変恐縮なのですが、このクリニック通信にも何度も登場し「がんばりまっせ~!」の合い言葉が得意だった母が、先般ついに逝ってしまいました。




今回は母の最期の状況を少しご報告させていただきたいと思います。クリニック通信第143回(2月号)「がんばりまっせ~! PartⅡ」にも書いたのですが、今年の1月に転んで骨折し、吹田病院に入院。私と後輩とで骨折を整復した後、骨癒合を良くする為に京大再生医科学研究所のT先生と共同研究をする予定の方法を取り入れてプラセンタ+FGFを骨折部に注射したり、プラセンタの筋肉注射をしたり・・・休みの水曜日、土曜午後・祝日午後と、しばらくは火曜午後の研究日も返上してせっせと吹田に通った甲斐があり、一旦は回復の兆しを見せて3月にはリハビリ病院に転院しました。母は病院の食事は「美味しない」とあまり摂らなかったり、リハビリが進まなかったりしたので、母の好きな鯖の味噌煮や美味しいイチゴを取り寄せて持って行ったり、リハビリの監視をしたりしていると私も坐骨神経痛が出たり酷い風邪をひいたりかなりヘトヘトになっていましたが、母は半分ボケても美味しいものは分かるらしく、好きなものを持って行くと「美味しいな! おおきに!」と喜び、一時できていなかったお箸での食事も、立つ練習もできるようになって「調子ええで! 立つの上手になったな、て褒められてん!」と言うまでになっていたのですが・・・。





しかし嵐は突然に。母は4月14日に突然の下痢と嘔吐にみまわれ、リハビリ病棟から急性期病棟に転棟。夕方見に行って少し落ち着いたので一旦帰ると、三宮に着いた途端に血圧が60まで下がって意識レベルも低下したと病院から呼び戻され、リハビリ病院では重症は診れず、心臓も悪いので明日には大きな病院に転院した方がいいと言われました。心臓でかかっていた国循(国立循環器病センター)か吹田病院かという話になったのですが、主症状が消化器症状で、吹田の消化器内科に同級生がいて「明日転院したい」と無理を言えた事などで、翌日吹田病院に転院。その後一旦持ち直したものの、腎機能が悪化して透析する事に。さらに19日の夜中に極度の貧血に陥り、心肺停止したと呼び出されました。蘇生して挿管しましたがCTで胸部大動脈解離が見つかり、20日朝方から輸血をしましたがDIC(播種性血管内凝固症候群=重症疾患の為に全身の細小血管内で血栓が多発して臓器不全・出血傾向が起こる病気)を起こして血圧が上がらなくなりました。




私は20日は夜中から吹田と三宮を三往復。朝4時に帰ったら7時に危ないと呼び出され、一度病院に行ったんですが11時からクリニックの予約が一杯だったので、一旦戻って診察してたら12時に今度こそ危ないと呼ばれ、午後の予約は急遽変更してもらい(事情を聞いて快く変更に応じてくださった皆様、ありがとうございました!)、病院に着くと血圧は60を切っていました。同級生の主治医に「良かった、間に合って」と言われ、それから家族交代で心臓マッサージを6時間ほどしましたが、最後は血圧が20を切り「もう無理」と主治医に言われました。「母のために医者になったのに、母のために整形に入って膝の手術もしたのに、最期助けられへんかった」と泣いてると「こんなたくさん血管の病気持ってて普通はこの年まで生きられへんよ。せっちゃん(私の事)が医者になって一生懸命いい先生探して、何回も助けたからここまで生きられたんやと思う。こんなに大事にされてる人少ないよ。お母さん幸せやったと思う。きっとせっちゃんが医者になっていっぱい助けてくれたん喜んではると思うわ」と慰められました。そして、母はそのまま夜遅くに息を引き取りました。





最終的には母は天寿を全うしたのだと思います。ただ、私がなまじ医者なだけに色々と考えるところがありました。治療については主治医と相談しながら、あらゆるコネを使ってお忙しい先生方に協力していただき、その時にできる最高の治療をしてもらったと思います。 普通であればそれだけでもありがたい話なのですが、やはり私の中では納得できない点や後悔する点もありました。それは「あの時、もしこうしていればもう少し生きる事ができたのではないか?」という疑念です。





吹田病院では腎不全の原因は血圧低下による虚血か敗血症かよく分からないと言われ、貧血や大動脈解離、DICの原因も不明だったので疑問点もあったし、大動脈解離が死因であれば14日に転院先を決める時に吹田病院ではなく国循に頼むべきだったのでは、透析が血管に影響したのなら透析をCVVH(負担が少ないように少しずつ透析する方法)にして欲しいと頼むべきだったのでは、大動脈解離が見つかった時点で国循転院を頼むべきだったのではとか、腸炎による敗血症が死因なら14日の夕方に一旦帰らなければ良かったなどと考えてしまい、母のために医師になったのに助けられなかったのは自分の責任のような気がしていました。また、転倒の注意を両親に再三していなかった事、循環器疾患に気を取られて骨粗鬆症の治療をしていなかった事、右膝の手術をしなかった事(左膝の人工関節置換術の術後ICUで感染しかけたのと、左膝が良くなると右膝の痛みが軽減したので右膝の手術は中止しましたが、晩年右膝の痛みが増強して歩きにくくなっていたのが弱った原因だと思う)など後悔する事ばかりで、循環器の問題が多かったので、今更ですが自分が循環器内科に進んでいれば良かったとも思いました。(循環器内科に進んでいたら膝の手術はできませんでしたが・・・。)





勿論、人生にifは禁物だという事は頭では分かっているのですが、身内の事になるとどうしても「もしあの時・・・」という事が頭から離れません。葬儀が終わっても、何かの拍子に同じ事を考えている自分がいて、自分の中では解決できなかったので、数人の先生に母の経過と検査結果を見てもらい、自分の気持ちを打ち明けました。そうすると心のこもったお返事をいただき、そのお返事を見ていて、人の人生って理屈じゃなく、何年生きたというのでもなくて、どんな人とどのように関わる事ができたかなんだな・・・と思うと、心の曇りがスーッと晴れていく感じがしてきました。私はこれらの先生方の言葉であまりにも元気にしてもらったので、ちょっと長いのですが引用させていただきます。





M君(卓球部の後輩で大学の循環器内科講師。2009年、最初にブヒ(母のアダ名)が心筋梗塞を起こしかけた時に助けてくれ、その後ブヒの事はよく相談していた): 4/14感染性腸炎 ⇒ 敗血症性ショック ⇒ DIC ⇒ 血圧低下・腎不全悪化 4/19解離性動脈瘤の解離腔内への出血で貧血 ⇒ 4/20多臓器不全と考えるのが妥当と考えます。高齢で大動脈解離が手術適応でないと考えると、国循より吹田病院で良かったと思います。急な展開でしたが、できるだけの事はなされていると思いますし、先生が十分以上努力されている事もよく分かります。お忙しい中、先生が最善を尽くされている姿をお母様もよく見ておられたと思います。私もできるうちに親孝行しなければと思いました。先生も多忙の中、ご無理されないようお願い致します。

Y先生(卓球部の先輩で大学の眼科准教授):先生として、今まで大切にされてきた交流を頼りに、ベストを尽くされたと思います。どのような選択をされても、振り返れば、考えるところはあると思います。きっとお母様も先生が力を尽くしてくれたことを天国で喜んでおられるに違いありません。どうか疲れが出ませんように、日々できることに力を注いで、前向きにがんばってください。





A先生(ブヒが心筋梗塞を起こした時に救命してくれた国循の元主治医。その後もブヒの事は相談していた):お母様の件は残念ですが、十分手を尽くされたと思います。いずれにしても多くの臓器が障害を受けており、どの病院でも救命は困難だったと思います。先生は十分お母様のお役に立てましたし、お母様はご自分の運命(寿命)を全うされたのだと思います。先生はお母様を救えなかったことを気にされているようですが、お母様は先生のお陰で十分に生きられたと思います。お母様はきっと先生が医師になったことを喜び、感謝していたと思います。

K先生(国循の主治医で循環器内科部長。ブヒの事は相談しまくっていた。急な判断を要する時は忙しい外来中に電話までくださったいい先生):14日に国循に転院していても同じルートをたどった気がしますので、先生の選択は間違いでなかったと思います。ショック腎はこの時はもう進んでいましたから。腸炎が死亡の直接的な原因かと思います。免疫能の低下など、いたし方のなかったことではないでしょうか? 大変陽気なお母様でしたので、そのお顔とお声が聞けないと思うと、とても残念です。ご家族の皆様もさぞお気落としの事とお察しいたします。先生は大変よく頑張られたと思いますし、残念なお気持ちもあられるでしょうが、ここはご母堂の天命とお考えになられ、静かにお見送りされますことを祈念いたします。





本当に先生方にはお世話になりました。お忙しい中、私のような拙い人間に丁寧にアドバイスをいただき、最後まで支えていただいて、元気を与えていただきました。また、友達や一部の患者様にも励ましの言葉をいただき、ブヒも私も本当に幸せな人間なんだ・・・と改めて感じました。この場を借りて皆様には心より御礼申し上げます。一番私の事をよく知っている親友Mは「ブヒはせっちゃんのために逝ったんだと思うよ。忙しい仕事の合間にブヒの面倒見に行って、ネヒ(私の姉の事)があれこれ心配する事もいろんな先生に聞いたりして、もう体力も気力も限界やったでしょ。親やったら、子供に世話かけたくないと思うもん。急変してから1週間であっという間に逝ってしまったのも、ブヒらしいというか、潔いよね・・・」と。そう言えばブヒは、私が病院に行って「ブヒ。せっちゃん来たよ」と言う度に「せっちゃん。あんた忙しいのに来たんか。来んでええのに」と言い、父や姉が病室にいる時に私が携帯電話にかけてブヒに代わった時は、いつも心配かけまいと「元気やで! 調子ええねん。あんた来んでええで。大丈夫や!」って言ってたなぁ。ブヒは自分が悪くなったら私が必死になるのを知ってたから、決意して急いで逝ってしまったのかもしれません。それでも4月14日に意識がなくなった時、私が病院に着いて「ブヒ。せっちゃん来たよ」と言った時だけ目を覚まし、父が「せっちゃん来たら目開いたな」と驚いていました。最後まで私事で恐縮ですが、葬儀の時の、その父の挨拶文を長いのですが引用させていただきます。




「幸子よ(母の名前)、安らかに眠ってください。89年間よく頑張ってくれたね。生前はお礼の言葉もかけなかったが、改めてありがとうと言いたい。幸子は明るい人柄で、友人の中でも人気者でした。娘達は幸子の事をブヒと呼んでいます。長女が大学でドイツ語を始めた時に家の中でドイツ語が流行し、その時イッヒ(私)という言葉と幸子が太っていたのでブタのブを取ってブヒというあだ名をつけました。長女はネヒ、父はトヒチャンというあだ名で、母と子も友人のようでした。ブヒは強運の人でした。敗戦の時勤めていた軍事工場で、食用油のドラム缶を運搬手段があれば持って帰って良いという通達があった時、ブヒは隣人がトラックの運転手だったので、その人に手伝ってもらってドラム缶を3本持ち帰りました。当時は超インフレで米の配給は月に20日分しかなく、他は闇市から買う時代だったので、ドラム缶1本の食用油は1億円の宝くじに当たったのと同じ価値があったと思います。また敗戦の混乱期、日本銀行の採用試験があり、市岡高等女学校卒業と言ったら『いい学校ですね。明日から来てください』と言われて無試験で入社できました。二人の娘を大阪教育大学附属池田小学校に入れる時も、当時娘達は市立幼稚園に通っていて、附属小学校に入るには私立幼稚園に通っていなければ難しいと園長は受験に反対でしたが、ブヒは『落ちたら抽選で落ちた言うてごまかしますわ』と強引に受けさせたら幸運にも合格しました。特に節子は入学式で総代の挨拶をしたので、ブヒの自慢でした。晩年は数次に亘る大手術も日本の名医に執刀してもらえ、『がんばりまっせ~!』と明るさを失わずに切り抜けました。『90歳までは何としてもおるで』が合言葉でしたが、(数え)89歳まで生きたのですから100点をあげたいと思います。長い間お付き合いくださいました皆様、ありがとうございました」





ブヒは明るくおもろい「浪花のおばちゃん」で、大阪弁で笑わせるのが得意でした。めちゃ前向きで楽天家、度胸があって運が良く、一発勝負に強い人でした。(楽天的過ぎて節制しなかったので成人病の宝庫になったんですが・・・。)人の世話をするのが好きで、女学校の同窓会の幹事を何十年もしたり、秋になったら毎年美味しい梨を取り寄せてたくさんの人に送ったり、私が吹田病院にいた頃は診察に来る度に10人分位のお弁当を作って来て整形の先生や看護婦さんに配ったりしてました。クリニックのスタッフの間でも「お母さん面白い!」と人気者で、「左の膝はこの先生(私の事)に手術してもろてんで!」とスタッフ達に嬉しそうに話してたなぁ・・・。なんだかまだブヒは実家にいて、クリニックにひょっこり注射をしに来そうな気がしてしまいます。 

お墓の場所を決めに行った池田のお寺は新緑が綺麗で、つつじや牡丹の花が満開でした。ブヒはみんなの事を考えてこんないい季節に逝ったのかもしれないな、と思うとまた少し涙が出るのを堪えることができませんでした。





母はいつも自分の事より人の事を考えている人でした。「人にええ事せなあかん」が母の口癖でした。自分の事より私の事を心配し、「あんた、うちによう似てるからな。体気いつけや」といつも言っていました。私も健康面は母を反面教師とし、精神面は母を見習って、これからも母の言葉を胸に、人の役に立つために「がんばりまっせ~!!」